しかたなすびの読書記録

ー夢は莫大な不労収入ー

【紀行文】オードリー若林正恭の『表参道のセレブ犬とカバーニャ要塞の野良犬』を読んだ感想

お笑い芸人であるオードリー若林正恭の『表参道のセレブ犬とカバーニャ要塞の野良犬』を読んだ。

2022年1月号の文學界に若林さんの対談が載っていて、そこで初めて若林さんが本を出していることを知った。

アマゾンで調べると、複数の本を出しているらしい。

その中でも気になったのが、キューバに行った紀行文であるというこの本だ。



ちょっと前には星野源の『よみがえる変態』というエッセイを読んでいて、それから芸能人の書く本に興味があったから、さっそく買って読んでみた。

めちゃくちゃ面白かった。

今日は『表参道のセレブ犬とカバーニャ要塞の野良犬』の感想を書く。




キューバは社会主義の国

キューバってどんな国?

アメリカの南の方にある国、としか知らなかった僕は、この本でキューバを少しだけ知ることができた。

というか、たぶんこの本を読んで知ったことが、僕のキューバのすべてだ。

そして、それは僕の知る社会主義というシステムの話のすべてということになる。



お笑い芸人の書いた文章だから、ユーモアたっぷりの本かと思ったら、そんなことはなかった。

この社会に生きづらさを抱え、他人と違ってうまくやれない自分に惨めさを感じている著者が、その自分が感じたことを通して、「日本という国の資本主義」と「キューバという社会主義の国」を、感覚として理解していく、そんな本だった。



僕が衝撃を受けた一文が、『キューバでは住む家は国からの割り当てだ。』というもの。

社会主義ってそうなの!?

家ほしいけど、ローン組むのはこわいなぁ、とか悩んでいる僕みたいな人は、キューバにはいないわけだ。

僕の知ってる世界と全然違うってことに、ものすごくびっくりした。



旅行をした気分になれた

若林さんの文章が端的でわかりやすく、そして自分の感じたことをそのまま書こうという意欲が見えて、なんだか一緒に旅行に行って、一緒にいろいろ経験したような気がするぐらい、楽しく読めた。



慣れない海外旅行の緊張もわかるし、知らない土地だからこそ普段の自分よりもアクティブになっていってテンションが上がるのもわかる。
(わかるって上から目線っぽく書いたけど、僕は海外は一度しか経験がない。)



そして思い出すのは、「観光名所で〇〇した!」というものよりも、「誰々と何々した!」という人との思い出だったりする。

そういうのすごくわかるー。



だだ、ビーチで巨漢のキューバ人と言い争ったあと、バスで股間からお金を出した話は、ちょっと盛ってると思う。(これは無責任なただの憶測で、ただの感想。それぐらい面白かった話だった。)



本の構成が素敵だった

最初の20ページぐらいは、正直なところあまり感情移入はできなかった。



資本主義批判、日本批判が目についた。

思想として、あまり共感はできないなと思って読んでいたけど、読み終わると、冒頭には必要なことが書かれていたんだなって思った。



若林さんの人生観を表しているということもそうなんだけど、今現在の自分のいる世界(日本)をぶっちぎって、別世界(キューバ)に行くための、一種の儀式なんだって考えると、すごく効果的な構成だったなと思う。



その効果にまんまとはまり、僕は若林さんと一緒に旅行に行ったと感じるぐらいに本にのめり込めた。



さいごに

この本は、キューバ、モンゴル、アイスランドと、3カ国を巡る紀行文だ。

そのそれぞれが、また違ったテイストで記されていて、どれもめちゃくちゃ面白かった。



陰キャを自称する若林さんが、自分の内面を見つめる旅を読み、僕自身も後ろ向きな考え方をする方だけれど、そんな自分でいいんだと肯定できるような、そんな前向きになれるような本だった。

【読書の振り返り】2021年に読んだ本45冊

2021年に読んだ本を振り返る。



漠然と作家になりたいと思い始めてから、

「年に100冊を読む!」

を目標にしていたけれど、振り返ってみると45冊しか読んでない。目標の半分以下。



それでも結構がんばって読んだと思う。

まとまった時間をとるって難しくて、隙間の時間を見つけてちょいちょい読み進めていたけど、意外と本ってたくさん読めるんだなって思った。

面白い小説って数行読むだけでも楽しいから、5分の読書とかでも気持ちがリフレッシュできる。



2021年はこれまでの人生で一番本を読んだ年になった。

2022年も年に100冊を目標にする。



ここから下は読んだ本の作者とタイトルを記録する。

そして最後は、記憶に残っている本のベスト3を挙げておく。


芥川賞受賞作

芥川賞を全部読むというのも目標の1つだった。

純文学ってとっつきにくいイメージがあったけど、読んだ本はどれも面白かった。

読んでいると自分の記憶や経験が浮かび上がってきて、つらくなったり苦しくなったりする。

何がそうさせているんだろうか?

文体? ストーリー?

いつか僕も純文学を書いてみたい。



津村記久子『ポトスライムの舟』

小山田浩子『穴』

村田沙耶香『コンビニ人間』

又吉直樹『火花』

綿矢りさ『蹴りたい背中』

羽田圭介『スクラップ・アンド・ビルド』

西村賢太『苦役列車』

山下澄人『しんせかい』

池澤夏樹『スティル・ライフ』

本谷有希子『異類婚姻譚』

川上弘美『蛇を踏む』

朝吹真理子『きことわ』

金原ひとみ『蛇にピアス』

村上龍『限りなく透明に近いブルー』

田中慎弥『共喰い』

鹿島田真希『冥土めぐり』

高橋弘希『送り火』

川上未映子『乳と卵』

沼田真佑『影裏』



古典的名作

名作はやっぱり面白い。

でも、読んでいて疲れる。

あんまりページも進まない。

時間のあるときにもっと読みたい。



三島由紀夫『美しい星』

三島由紀夫『潮騒』

夏目漱石『三四郎』

川端康成『雪国』

川端康成『みずうみ』

川端康成『眠れる美女』

川端康成『伊豆の踊子』

川端康成『古都』

谷崎潤一郎『痴人の愛』

谷崎潤一郎『春琴抄』

谷崎潤一郎『刺青・秘密』

泉鏡花『歌行燈・高野聖』




現代の小説

どれも面白かったけど、長編小説は読むのに時間がかかるから、隙間の時間じゃ読みきれない。

芥川賞をあらかた読んだら、次は直木賞を読破したい。いつかの目標とする。



綿矢りさ『インストール』

原田マハ『太陽の棘』

東野圭吾『手紙』

村上春樹『ノルウェイの森』上下巻

津村記久子『君は永遠にそいつらより若い』

恒川光太郎『夜市』

恩田陸『光の帝国』

山崎ナオコーラ『人のセックスを笑うな』

松本清張『黒革の手帖』上巻のみ

坊っちゃん文学賞受賞作品集『夢三十夜』



エッセイ

エッセイってあんまり読んだことないんだけど、これは面白かった。

星野源が好きになった。

テレビで星野源を見るたびちょっとうれしくなる。

もっとエッセイも読みたい。



星野源『よみがえる変態』



海外小説

海外小説は情景のイメージが湧きづらくて、苦手意識がある。

けど、もっと読みたい。



スティーブン・キング『ダーク・タワー』
フィツジェラルド『グレート・ギャツビー』
J.Dサリンジャー『ライ麦畑でつかまえて』



ベストスリー

いつまでも思い返してしまうような、記憶に残っている小説を3つだけ厳選するとしたら。



村上春樹『ノルウェイの森』



スティーブン・キング『ダーク・タワー』



星野源『よみがえる変態』



ノルウェイの森は、読んだあともずうーっと焦燥感が残る。

登場人物は、みんな世間に溶け込めなくて、ズレを感じて生きている。

そのズレが、読んでいる自分にも当てはまるような気がしてつらい。その感覚がずうーっと残る。

村上春樹は罪深いと思う



ダーク・タワーは、やばい。

まず、長い。7巻もある。

読み切るのに数年かかった。

でも面白い。これほど濃厚なファンタジーは存在しないんじゃないかとさえ思う。

途中、続編がなかなか出ない時期もあったらしく、完結までに長かったようだけど、本当に完結してよかったと思う。



よみがえる変態は、星野源を見るたびに思い出す。

彼の人となりをすこしでも知れたような気がして、ファンになってしまった。

音楽はあんまり聞かないけど、ファンです。





以上、2021年の振り返りおわり。

【感想】アナ雪2の考察と妄想。こうしたらもっとわかりやすい話になる。

2021年11月19日のこと。

金曜ロードショーで『アナと雪の女王2』がやっていて、子どもがいつもより早く寝てくれたこともあり、最初から最後までゆっくり見れた。



アナ雪の一作目の方は映画館で見ていて、めちゃくちゃ面白くて、さすが社会現象になるほど流行ってるだけあるなと思った。

流行ってるものはなんとなく行かないというへそ曲がりな僕でも、早く見に行けばよかったと思うぐらい面白かった。



そんなこともあり、『アナと雪の女王2』は期待大で見てたんだけど、途中「あれっ?」と思うことが多数。

次の日もぐるぐると頭の中で考えてしまったから、文章化してみることにした。



この記事では、『アナと雪の女王2』の問題点を挙げていき、どうすればもっと面白くなったのか、という個人的な感想を書く。

ちなみに、僕は原作を読んでいないし、他の人の感想も見ていないし、これは完全なる独りよがりの感想だ。

ネタバレも含むから注意。


[:contents]



テーマがわからない

一作目では、

・真実の愛
・ありのままの自分

が、作中を通して描かれている一方で、アナ雪2のテーマが判然としない。

作中と歌やセリフから推測されるに、

・心を一つに
・正しいことをする
・水は記憶を持っている
・大人になる
・未知の先へ

と、思いつく限りで5個もあり、一番のテーマはなんだったのかと考えてもわからない。



問題点

一作目で解決したはずなのに、エルサは自分の氷の力に悩む。

「私は何のために生まれてきたのか」という問いは普遍的なものかもしれないけど、一作目で「アナとの真実の愛」に目覚め、「ありのままの自分」を受け入れたんじゃなかったの?

と、どうしても同じことの繰り返しに見える。



他にも気になるところが多数。

・クリストフがプロポーズのこと気にしすぎ

・ふつう、決壊したら国が滅ぶようなところにダムを作るか?

・ダム作ってから30年以上経ってて、しかもその場所が霧で確認しにいけないとか、メンテナンスが不安すぎてて下流の街に住んでられないよ

・30年以上も霧の中でさまよってた兵士たちの苦労が忍ばれる

・原住民の方が数が多すぎ。兵士たちはよく生き残ってたよね

・怒ってるはずの精霊を大人しくするのチョロすぎ

・アースジャイアントは自分でダム壊せたじゃん

・アナに女王は務まらないんじゃないかな

・エルサは自分の力の責任として、国を出ることになったけど、本当にいいの?


僕が考えたアナ雪2

と、気になることがありすぎて仕方なくなってしまったので、僕が考えたアナ雪2を文章化することにした。

以下、僕の妄想です。



プロローグ

(一作目からのつながりとして)エルサは、アナからの真実の愛を受け入れ、ありのままの自分を開放していく。


今までお城に引きこもってきたこともあり、外の世界への興味が深くなっていく。(外の世界に対して開放的なアナの性格に似てくる。)


日常的に氷の力を使うようになり、力への理解が深まる。


それと比例するように、謎の歌声が聞こえるようになっていく。


謎の声の正体を探しに冒険に行きたいが、女王だから国を離れるわけにはいかない。



精霊の襲撃

そんな平和な日々だったが、突然、精霊が国を襲撃する。


住民たちは高台へ避難する。(精霊はまだ人間を信じたい気持ちがあるから、避難させた。)


そこへトロールが現れ、霧の森と、ダム、精霊の話を聞く。


精霊を鎮めるために冒険に出かける。



霧の森

原住民と、国の兵士が争っている。


アナとエルサが仲裁に入る。


霧の中は時がゆっくり流れていることを知る。(外の世界では30年以上だけど、霧の中は数年ぐらいしか経っていない。戦争真っ最中。)


霧の森で一部の精霊と和解するが、他の精霊は怒り狂っていて和解できない。


エルサの力が暴走し、氷の力で水の記憶を見ることになり、両親が関わっていることを知る。


両親の船の残骸を見つける。


戦争の真実を見つけるため、謎の歌声が聞こえてくる方へ、水の記憶が集まる場所へ向かう。



エルサとアナの別行動

エルサは、アナの身を案じ、別行動をとる。


エルサは、水の記憶を見る。


戦争の原因が、先々代の国王(エルサとアナの祖父)の裏切りにあることを知る。


その裏切りによって、精霊が人間に失望していることを知る。


また、戦争の最中、エルサの母が父を助けていることを知る。


そのとき、母はエルサを身ごもっていた。


夫婦の真実の愛を見た第五の精霊は、愛の象徴であるエルサの中に自らを封じる。


エルサの父母の愛の記憶、先々代の国王の国への愛と後悔を知る。


氷の力の本質は、水の記憶を物理的に再現する能力であると知る。


戦争の記憶、精霊の怒りの大きさに耐えきれず、自分を守るため、(一作目でアナが凍りついたように、)今度はエルサが凍りついてしまう。


最後の力を振り絞り、アナに助けを求める。



アナの冒険

エルサのSOSを受け取ったアナは、争いの象徴であり、精霊の苦しみの源であるダムを壊すことを決意する。(下流の国は滅ぶが、高台に避難しているため、住民の命は守られることになる。)



アナのエルサへの愛。

兵士の国への愛。

原住民の自然への愛。



様々な愛の形が怒り狂う精霊をなんとか鎮める。


人間同士の争いも鎮まる


精霊も人間も、みんなで協力してダムを壊す。

過去の記憶の人たち(魂としての存在で)も協力する。

過去、現在、未来が交差する



ダムが決壊し、精霊の力が正常化したことで、エルサの中の第五の精霊の力も増し、エルサの氷が溶ける。


みんなで協力してダムを壊す記憶を見て、人間への希望を取り戻した第五の精霊とエルサは、下流の国を守るため、他の精霊の力を借りながら国に急いで戻る。


決壊したダムの水流から街を守る。



エンディング

霧の森の中で生きていたと思っていた兵士と、原住民は、実は既に滅んでいた。


エルサの氷の力で、過去の記憶(魂)を読み取っていただけだと知る。


アナとエルサの2人の存在が、精霊と人間の架け橋になることを自覚する。


エルサは、未知の冒険に憧れ、精霊とともに冒険に出かける。


アナはエルサの冒険を後押しし、自分が女王になり、いつかエルサの帰る居場所を守ることを誓う。


おわり。



まとめ

以上、妄想でした。

アナ雪2、面白かったです。

【小説の感想】『共喰い』は気持ち悪いけど面白かった

田中慎也の『共食い』を読んだ。

芥川賞を受賞した作品だ。



読む前から暴力的な性描写のある作品だとは知っていたけど、その点はあまり気持ち悪いとは思わなかった。



けど……

・他人を容易に軽んじる気持ちの悪さ

・自分のことしか考えない気持ちの悪さ

・息子が母親の生理について言及する気持ちの悪さ

そんな気持ちの悪さがあった。



全体的に後ろ向きで、爽快感なんてものはまったくなかったけど、面白かった。

今日は、タイトルである『共喰い』の意味について、感想を書く。



父と息子の共喰い関係

まず、「共喰い」の意味について。



共食い(ともぐい)は、動物においてある個体が同種の他個体を食べることである。この現象になぞらえて、同業者同士で利益を得ようとして共倒れすることも共食いと呼ばれる。

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』



この作品における「共喰い」は、同種の他個体、つまり主人公である遠馬と、遠馬の父、血のつながりのある2人がお互いに食い合って、自分たちをつぶしあう関係を指していると思う。



遠馬の父は、セックスのときに暴力をふるう。

遠馬は、そんな父のようにはなりたくないと思いつつ、いつか自分も暴力をふるうようになるんじゃないかと悩んでしまう。



本来、父が暴力をふるうことと、息子が暴力をふるうこと、その間に因果関係はまったくない。

けれど、遠馬は父と自分が、血のつながりゆえに似るんじゃないかと思い、父と自分を混同してしまう。

この混同が、一種の共食い関係である(食べるってことは、相手の一部を吸収するってことでもあるしね。)。



遠馬は、父の暴力の対象ではなかった。

また、周囲の女性も遠馬の悪癖に対して否定的ではあったが、完全な「悪」とはみなしていなかった。

これが大きな問題で、悪癖としてなぜか周囲に受け入れられている遠馬の父を、遠馬は完全には否定できない(自分と父を混同している遠馬が、父を完全に否定することは、自分を完全に否定することでもあり、それはできない。)。



結局、遠馬もセックスのときに暴力をふるってしまう。

それを知った父は、喜ぶ。

父は、自分の悪癖が息子に受け入れられたと感じたからだ。

結果として、父の悪癖は増長し、より暴力的になっていく。

その暴力の増長が、さらに遠馬を傷つける(どうしてさらに遠馬が傷ついてくのかはネタバレになるから書かないけど。)。



これが遠馬と父の悪循環の関係。

共食い関係。



それはそうと、自分の快感のためだけに暴力をふるうって、気持ち悪い思考だよね。

相手も少なからずたのしんでるとか、征服欲が満たされるとかじゃなくて、純粋に暴力そのものに快感を感じて、しかも罪悪感もなく実行できるなんて、遠馬の父のクズさが際だってる。


父と母の共喰い関係

もう一つの共食い関係は、遠馬の父と母の関係だ。

遠馬の母は、遠馬の父の暴力に耐えかね、遠馬を生んですぐに、遠馬を残して別居することになる。



しかし、同じ町内の別のところで生活するだけで、遠くに逃げていったわけではない。(母は父を完全に否定したわけじゃない。)

父と母はその後、直接的な関係は切れることになるが、遠馬は父のところで生活しつつ、母のところにも気軽に遊びにくるという日々が続く。

けれど、遠馬が父の血を受け継いでるという理由から、母は遠馬を不完全にしか愛せない。

こうして、遠馬の父と母の、不思議な距離感のある関係に落ち着く。



そして最後、悪癖の増長した遠馬の父に対して、遠馬の母は暴力をふるう。

この場合の暴力は、セックスではなく、純粋な暴力だ。



しかも、その暴力に対して、達成感など(それと性的快感もあったように思うが、これは記述からは明確に読み取れないから自信がない。)、少なからずの好意的な感情を抱いてしまう。

ここで、遠馬の母は、性的快感のために暴力をふるっていた遠馬の父と、暴力を介して混同が起きる(2つ目の共食い関係)。



そして、遠馬の父と母は、互いに傷つけ合う結末を迎える(ここもネタバレになるから、ぼやかして書く。)。



会話がうまい

この作品では、複雑な関係をイメージさせる会話がうまいなと思った。

冒頭では、魚屋の女主人として働く遠馬の母と、遠馬の会話があるのだが……



「いま帰りかね。」
「うん。」
「誕生日じゃね」
「うん。」
「コーラ飲んでくかね。」
「いいや。」
「ほんならまたおいで。」

『共喰い』から引用



2人が普通の親子関係にないとは明かされていない段階での会話だ。

でも、この会話だけで、2人の距離感が普通の親子とは異なることが伝わってくる。



この部分から一気に作品に興味をもっていかれて、一気に読んでしまった。

小説家ってすごい。



まとめ

登場人物がみんな自分のことしか考えてなくて、びっくりする。

こんな風にしか自分は生きられない、という諦めと割り切り、みたいな後ろ向きなものを感じた。

そういう泥の中を進むような、息苦しさを感じる作品だ。



面白かったけど、ラストの一文の気持ち悪さと、後味の悪さがすごくて、印象的な作品になった。

【エッセイ】星野源の『よみがえる変態』を読んで前向きになれた

星野源の『よみがえる変態』を読んだ。

びっくりするぐらい面白かった。

『逃げるは恥だが役に立つ』で名前が売れたから本でも出したんだろ、と思って読み始めたのだが、ところがどうしてめちゃくちゃ面白い。



映画で童貞の役を演じたときの話。

アルバム制作に込めた熱意。

そんな話が綴られていて、毎日数時間しか寝れないほど忙しくて体がしんどいはずのに、もっといろいろやりたい! という前向きな気持ちが伝わってくるエッセイになっている。



そして、俳優であり、歌手であり、文筆家である星野源に、「表現者」って感じがして、軽くジェラシーを感じた。
(何もしていない自分がジェラシーを感じるのもおこがましいのだけれど笑)


感じた気持ちを飾らないで表現しているこのエッセイを読んで、「私もなんかやってみよう!」と思ったので、とりあえずブログで感想を書いてみた。



好きを仕事にしている

芝居が好き。

音楽が好き。

文章を書くことが好き。

そんな気持ちがたくさん伝わってくる。



羨ましいなぁと思う反面、私はもっと楽して生きたいなぁと思った。

好きなことを仕事にしたとしても、日々それに全力を出して生きるのは大変だと思う。

私にもそれほど情熱を傾けられるものはあるだろうか、と考えたけど……一個も思いつかない。



ゲーム、読書、ブログ、文章を書くこと、どれも暇な時間にやるから楽しいんだよね。

星野源みたいに、深夜に、あと二時間で仕事に出かけなきゃ、なんてシチュエーションでは楽しんで文章なんて書けるわけがない。

星野源は変態だ。




人付き合いが下手と言いつつ

小学生の頃は自閉気味で、人と関わらないように生活していたと書いてあった。

家族でハワイ旅行したときも、外に出ないで部屋にこもっていたというんだから相当なものだ。

それなのに、演劇をやったり、音楽をやったり、仕事のつてを得るために飲み会に参加したり。



私も人見知りで人となるべく関わりたくないと思って生活しているので、共感できるところは多いけど、星野源みたいに頑張って他人と関わっていこうとするのは尊敬できるほどすごいことだなと思った。

たぶん、飲み会とか、本当は行きたくないと思ってるところに、めちゃくちゃストレス高いところに、自分から飛び込んでいってるんだろうなと思う。

すごい。



それはやっぱり、芝居だったり音楽だったり、自分の好きなことを追求するためのエネルギーがそうさせてるのかなと感じた。

すごい。



距離の近さを感じる文章

『よみがえる変態』を読んで、星野源の人となりを知った気になれた。

文章が読みやすくて、読者との距離感が近いんだと思う。そしてたぶん、星野源もそれを意識してかいてるように見える。

エッセイを読んでて、星野源が朗読してくれてるような錯覚を覚えた。

すごい。文章うまい。ジェラシー感じる。



特に、時間の経過の表現がうまい。

例えば、自分の考えたことや主張を書く場合、そこに時間の経過は存在しない。

30秒で考えたことでも、1時間かけて考えたことでも、読者にはその時間の進みがわからない。



けど、星野源のエッセイには、不思議と時間の経過を感じる。

「カップめんが食べたい」と書いたあとに、話が脱線して続き、「あ、今食べ終わりました。」みたいに話が進む。

なんだか同じ時間を共有している気持ちになった。

すごい。



まとめ

星野源のことが好きになれる、そんなエッセイだった。

エッセイ最後の方では彼の病気のことが書かれていた。

当時はつらい体験だっただろうに、すごく前向きに書かれていて、彼の「人生を楽しむ」という哲学が伝わってきた。

私も好きなことに打ち込む時間を大切にしようと思った。

【感想】村上春樹の『ノルウェイの森』の主人公がかっこいいと思った

ノルウェイの森 上 (講談社文庫)

ノルウェイの森 上 (講談社文庫)

  • 作者:村上 春樹
  • 発売日: 2004/09/15
  • メディア: ペーパーバック

ノルウェイの森 下 (講談社文庫)

ノルウェイの森 下 (講談社文庫)

  • 作者:村上 春樹
  • 発売日: 2004/09/15
  • メディア: ペーパーバック

『ノルウェイの森』を読んで、生活力のある男はかっこいいなと思った。

主人公のワタナベ君は、大学生なんだけどびっくりするぐらい生活力がある。
まず、食事をきちんと作って食べる。部屋の掃除もきちんとする。定期的に布団を干したり、カーテンの洗濯までする。引っ越した先の荒れた庭の手入れをする。木材を買ってきて勉強机を自作したりもする。
普通の大学生はここまでできない。

そして、友達のお父さん(病気で入院中)と病室で二人っきりになっても、気まずい思いをせずに普通に会話ができる。さらには、そのお父さんの食事や排泄のお世話もしちゃう。その日初めて会ったばかりなのに。

そういう生活に根ざした基本的なことを、苦も無くやってしまうところに、彼の強さと豊かさがあるんだと思った。

作家・村上春樹

『ノルウェイの森』は、村上春樹の著作。
村上春樹は、小説家でもある、翻訳家でもある。

ちなみに、1949年生まれ。
京都府京都市で生まれ、兵庫県西宮市・芦屋市で育つ。



あらすじ

主人公であるワタナベは、高校時代、親友であるキズキの自殺をきっかけとして、「死」について深く考えるようになってしまう。

同じく、キズキの恋人であった直子もキズキの自殺を受け止めきれず、精神的な傷を負ってしまう。

ワタナベと直子は高校を卒業して大学生となったが、偶然にも再開を果たし、お互いに惹かれあうようになる。しかし、直子は精神的な傷が癒えないままであり、日常生活もままならない。やがて直子は本格的な療養に入ってしまい、会える機会が減り、手紙でのやりとりが主な交際手段となってしまう。

ワタナベは、そんな直子を支えようと悩み、苦しみながら大学生活を送っていく。



自分の中の歪み

『ノルウェイの森』には、3種類の人間が登場する。

  1. 自分の中の歪みに気づかない人(大多数の人)
  2. 自分の中の歪みとなんとか折り合いをつけられる人
  3. 自分の中の歪みとうまく折り合いをつけられない人
自分の中の歪みとは、世間と自分がずれているという感覚、自分と他者が決定的にわかりあえないという感覚、自分の中に致命的な欠落があるという感覚、といったところ。
『ノルウェイの森』では、圧倒的に「3」に当てはまる人物が多く登場し、しばしば自殺という結末を迎えてしまう。(キズキもそれで自殺したのだと思う。)

キズキの自殺によって「死」に気持ちが引っ張られてしまっている直子は、「3」に当てはまる。(ワタナベ君は、悩み苦しんでいるけど「2」に当てはまる)

そんな直子を支えていくのは容易ではなく、ワタナベ君は悩みながらも、直子を支えられる強さを持とうと考える。



「強さ」について

ここでいう「強さ」とは何か。
ワタナベ君は、この「強さ」を「きちんとした生活を送ること」と考えたんじゃないかな。
だから、食事はちゃんと作って食べようとするし、部屋もちゃんと片付けようとする。

「死」の対極であると考えられる「きちんとした生活」を送ることで、自分も「死」から逃れ、直子のことも支えられる「強さ」を持とうとする。

その発想ができるって、すごく豊かな人間性だなって思った。



単純に、強い自分になろうと思ったら、筋トレするか、勉強して知識を得ようとするか、頑張ってお金を稼ぐか、社会的な信用を得ようとするか、そんな風のことを考えると思う。(僕だったらそう考えちゃう。)

でも、そういうものじゃ、直子のことを支えられないって感じてたんじゃないかな。



直子も、別にワタナベ君に依存したりはしていない。
ワタナベ君が、たとえケンカに強くたって、頭がよくったって、お金持ちだったって、別に安心したりはしないし、精神的に楽になったりしない。

直子はワタナベ君の負担にはなりたくないって思っているから、仮に直子が、自分の中の歪みと折り合いをつけられなかったとしても、それが原因でワタナベ君の人生を壊してしまうことはないんだ、と思える安心があって、はじめて直子もワタナベ君の隣にいられるようになるじゃないかな。

ワタナベ君には幸せになってほしいな。

【感想】川端康成の『雪国』は不倫だけど純愛だと思った

雪国 (新潮文庫)

雪国 (新潮文庫)


『雪国』は、「あ、なんか、すごくイチャイチャしてんなー」というのが読んだ感想だった。

なにも、えっちな描写がすごいとか、浮かれているとか、夢や希望であふれているとか、そういうイチャイチャじゃない。(むしろ、えっちな描写は川端康成に天才的な文体によって美しく省略されている。)

名作である『雪国』に対する感想としては不適切なのかもしれないけど、主人公である島村と駒子がイチャイチャしている様子を見て、照れてしまうような気持ちになった。

お互いに「好きだから会いに来た」という一点のみが強調され、これからの二人の未来がどうだとか、過去がどうだったかとか関係ない。「できる限り長く一緒に過ごしたい」という「今」を切り取った物語だからなのかな、と思った。


作家・川端康成

『雪国』は、川端康成の著作。
川端康成は1899年生まれ。出身は大阪府。
1968年にノーベル文学賞を受賞している。
1972年に亡くなっているが、死因は自殺とされているが、事故死説もあり。



あらすじ

「国境の長いトンネルを抜けると雪国であった」というか有名な書き出しで始まる物語。

ちなみに、その次に続く文は「夜の底が白くなった。信号所に汽車が止まった。」である。

主人子である島村は、親譲りの財産で生活しているため定職についていない。ふらふらとやりたいことをやって生活していて、趣味が高じた小遣い稼ぎをする程度。特に人生において目標や生きがいはなく、世捨て人のような生活をしている。けど、妻子あり。

島村は、妻子がありながら芸者の駒子と恋仲となる。といっても、愛人として囲っているとか、定期的に逢瀬を重ねているとか、そういう関係じゃなく、島村の気が向いたときにふらっと駒子の働く温泉町に会いに行くような、いわばゆきずりの関係。

そんな二人の関係性のもと、冒頭の書き出しは島村が駒子のいる温泉町に向かうシーンであり、島村がそこに長逗留して、駒子が島村の泊まる部屋に足しげく会いにくる、という話。



不倫だけど純愛

島村は、妻子がありながら駒子と関係を重ねていく。
はっきり言って不倫だけど、作中では妻子への負い目とか、葛藤とか、まったく描写がない。

たぶん、妻子のことを本当は気にかけているけど描写がないだけ、ではなくて、本気で島村は不倫についてまったく問題にしていないと思う。

それはきっと、島村が親譲りの財産で生活していて、労働という生活に根ざした苦役を負っていないから。それゆえに、生活感のない現実離れした価値観をもってしまっているから。

自分についても、他人についても、「生きる」という行為についての実感が希薄なんじゃないかなと思う。だから、自分の感情も、他人の感情も、あまり本気になって大事にしない。



普通なら、駒子に対しても申し訳なさを感じると思う。
芸者で身を立てる駒子の生活を楽にしてあげたいなとか、精神的な支えになってあげたいな、とか。
でも、島村はそんなこと考えない。
「僕はなんにもしてやれないんだよ。」とか言っちゃう。
いっそ、冷たいとさえ思える。



そんな島村との関係だから、駒子との恋愛には「過去」も「未来」も入りこむ余地がない。
徹底的に「今」の瞬間だけの関係。
少年少女の恋愛のように、「今、会いたいから会いにきた」というのが切実に浮かび上がる。
そういう意味で、不倫だけど純愛と言えるんじゃないかな。
最高にイチャイチャしてんなーって思った。



省略の美しさ

よく、『雪国』は省略が美しいと言われる。

例えば、夜に駒子が島村に会いに来たと思ったら、次の一文では朝のシーンに切り替わっていたりする。それで、お湯に入ってくるねーとか会話している描写を読んで、「朝まで一緒にいたんだな。これはえっちなことをしたな」って想像する。

そういう行間で読ませてくる文体だから、読み慣れないとわかりにくいと思うんじゃないかと思う。

それでも、文章自体(使われている言葉とか、言い回し)はわかりやすくて、ほかの文豪と呼ばれる人たちの作品よりは各段に読みやすい。

実はこの作品は二度読んだ。学生のときと、社会人になった今。
学生の頃に読んだときはまったく面白いと思わなかったけど、社会人になって読み直してみると面白い、さすが名作だな、と思った。